2011年6月23日木曜日

「生活障害」を支える

あいりん地区(釜ヶ崎)で地域医療にたずさわる人たちは一様に、日雇労働者として生活してきた人々の「生活障害」について語ります。人生の多くを飯場(作業現場の近くに設けられた労働者の生活施設)で過ごしてきた人たちの中は、食事に気を遣ったり、金銭の管理に心を砕くといったことが、非常に難しく感じられる人が少なくないからです。

満足に料理もできず、ひとりでは健康な生活を維持できないことは、何も日雇労働者に限ったことではなく、ある世代の日本人男性が広く共有する生活習慣であると言っても良いでしょう。それが生活障害として認識されないのは、生活を親身に支えてくれるパートナーや家族がそばにいる場合です。日雇労働者を引退した人の中には、そうした支えを得られないこともあって、深刻な生活障害に直面する人が多いというわけです。

531日、大阪市西成区のあいりん地区で実施された「地域医療・公衆衛生実習」に参加する機会を得ました。実習を主催してくださったNPO法人Health Support Osaka (HESO) は、2006年から日雇労働者やホームレス者に向けた結核対策などの地域医療に取り組んでいる団体です。

あいりん地区を歩いて、ここが労働者の町から「福祉」の町に変容しつつあることを実感しました。新今宮駅から少し南に下った南海電車の線路沿いには、釜ヶ崎の日雇労働者が単に「センター」と呼ぶ場所、西成労働福祉センターがあります。日雇労働の斡旋を正常化する(つまり労働者の日当をピンハネする悪徳斡旋業者を排除する)目的で1970年に設置された「センター」は、釜ヶ崎の町に君臨する巨大なコンクリートの塊という風情なのですが、我々が訪れたときには閑散としているように見えました。

他方で町の至るところには、「福祉の方、歓迎します」という看板が掲げられたアパートがあります。ちょっとわかりにくい表現なのですが、どうやら「福祉の方」というのは、生活保護の受給者、あるいは受給を希望する人のことを指しているようです。もっとわかりやすく「生活保護の方、入居できます」と掲げている建物もあります。

釜ヶ崎は長い間、日雇労働者の生活を支える町として知られてきましたが、一方では日雇労働者に対する求人が減り続けており、他方で、日雇労働者として生活してきた人たちの中には、支援や介護を必要とする高齢者として生きる人が増えています。

今回の実習では多くの場所を訪問しましたが、その中には「サポーティブハウス」と呼ばれる場所も含まれていました。サポーティブハウスとは、生活障害を抱えた入居者のために様々な支援を提供する簡易宿舎転用型アパートのことです。釜ヶ崎では三畳一間の簡易宿舎を、生活保護受給者向けのアパートに転用する例が増えていますが、サポーティブハウスはその中でも、もっとも手厚い支援を提供するアパートの形態です。

日雇労働を引退した人の中には、無理な生活を重ねて体を痛めている例も多く、何種類もある薬の服薬を見守ることは、サポーティブハウスが入居者に提供する大切な支援のひとつであり、あいりん地区の地域医療を支える活動のひとつです。サポーティブハウスが提供する支援は、他にも「生活保護申請手続きの介助、金銭管理、安否確認、居室や共用部分の清掃、サラ金問題の相談」、「入居者同士のトラブルの仲裁、入退院手続きの介助や入院中の見舞い、介護保険の相談」などがあり、加えて「入居者同士の交流を促し、また入居者と地域社会との接点をつくる」こともおこないます。訪問したサポーティブハウスの代表は、入居者から「ここで死にたい」と最期の看取りを求められることもあると話しておられました。

生活障害という名の、数々の厄介な問題を我が身に抱えた人たちに対して、釜ヶ崎の地域社会は、「ここはもうあなたたちの場所ではない」と言ってしまうことも、できたかも知れません。釜ヶ崎はかつて日雇労働者の町だったが、時代は変わり日雇労働者は姿を消しつつある。そう考えるならば、ただそれだけのことなのです。かつて日雇労働者の町とされた場所の多くは、跡形もなく再開発がおこなわれるか、あるいは予算の少ない旅行者に宿や食事を提供する場所に変わりつつあると聞きます。

しかし実際には、釜ヶ崎の地域社会は、引退した日雇労働者に居場所を提供し続けようとしています。生活障害を抱え、生活を支えてくれるパートナーや家族を持たない人は、その人生に親身につきあってくれる地域社会を切実に必要としています。

もちろん地域の人たちが、日雇労働者の生き方を、まるごと肯定的に捉えているわけではないことも理解できます。実習では、日雇労働者やホームレスに職業訓練をおこなう「リサイクルプラザ」も訪問しましたが、現場の副所長さんは、若い訓練生が職業人として自律的な生活を身につけるために、釜ヶ崎の環境から離れることが大切だという考えを強調しておられました。

それはその通りであるでしょう。しかし私たちがリサイクルプラザを去ったあと、追加の資料を持ってわざわざ追いかけてきてくれた副所長は、最後に少し違うことを伝えたいと考えていたようでした。「ここにいる人たちは、いろいろな思いを抱えて全国から集まって来たのだから、この人たちを大切にしないといけない、そのことだけ忘れないで」。こういう趣旨のことを、二、三度繰り返して言われたのがたいへん印象的でした。

「コンクリートから人へ」ということばが、政治家によって掲げられたことがあります。やみくもにコンクリートの建造物を増やす社会から、人をケアすることで幸福を追求する社会に転換しよう、ということでしょう。そのような目標を掲げるまでもなく、私たちの社会はもう大規模な建造物をつくり続ける余裕はなく、増え続ける高齢者のケアが目前の課題になっています。

その意味では「コンクリートから人へ」は、私たちの課題ではなく現実なのですが、釜ヶ崎では、コンクリートの建造物にお金が使われなくなったまさにそのことが、日雇労働者として生きてきた人たちの「生活障害」を加速する要因になっているのです。それだからこそ、この変化の中にあって、この場所を拠り所として集まる人たちの生活と健康と人格を「大切にしないといけない」ということが、切実に感じられるのです。

2011年5月9日月曜日

放射線の胎児への影響を心配する人に

放射線の影響が心配なので避妊を徹底していますという趣旨の書き込みを、インターネット上で見つけました。放射線の影響下では、胎児の健康についてどう心配すればよいのでしょうか。

専門家によれば、放射線が胎児に先天性の異常を起こすのは、妊娠初期に100ミリシーベルトとか200ミリシーベルトというレベルの大量の被ばくがあったときであるとされます。その限りでは、環境中の放射線がいつもより高いからといって、臆病になって避妊する理由はないということになります(福島の一部では、環境中の放射線量が平常よりも驚くほど高いところがありますが、それでも計算してみると、妊娠初期の数週間に浴びる可能性のある放射線量は、100ミリシーベルトに遠く及ばないことがわかります)。

いやそれでは不十分だ、低いレベルの放射線による長期的な影響を調べる必要がある、という人がいるでしょう。たとえば、チェルノブイリの影響を疫学的に追った研究はどうか。ウクライナのリウネ州では、2000年から2006年のあいだに生まれた新生児の先天性異常が他の地域よりも多かったという報告があります [1]。同じリウネ州で実施された調査では、地域住民が長い期間にわたって、年間数ミリシーベルトの内部被ばくに晒されてきたことが明らかにされています [2]。(ここで年間数ミリシーベルトというのは、環境中の放射線ではなく内部被ばくについての数字であることに注意して下さい。)

[1] Wertelecki, Wladimir. 2010. Malformations in a Chornobyl-impacted region. Pediatrics 125:e836-e843.
[2] Zamostian, Pavlo et al. 2002. Influence of various factors on individual radiation exposure from the Chernobyl disaster. Environmental Health 2002;1(4).

リウネ州の土壌は、広い範囲に渡って放射性物質に汚染されており(リウネ州Rokitnovsky郡では、1平方メートルあたり25.9 - 170.2キロベクレルのセシウムが検出されています [2])、土壌からミルクなどの食品に移行した放射性物質が、長期にわたる内部被ばくの原因となったようです。

リウネ州では、住民の内部被ばくによって新生児の先天性異常が増加した可能性があります。例えば神経管欠損症 (NTDs) という一種の先天性異常について見ると、ヨーロッパの他の地域では新生児10,000人あたり18.3人に発現するのが、リウネ州では10,000人あたり22.2人だったという結果が示されています [1]

問題は、この結果をどのように解釈するかです。ここで気をつけてほしいのは、リウネ州での疫学調査は、「私は妊娠しても良いですか」という質問に答えるための調査ではないということです。 調査結果を見て、「放射線の影響下では内部被ばくを防ぐ対策を徹底すべきだ」というようなことは言えます。しかし、新生児のNTDsがおよそ0.05%(1万人あたり5人)増加したという数字を根拠にして、リウネ州の女性は妊娠を控えるべきだったとか、これからも妊娠を控えるべきだなどと考える人がいるならば、その人は疫学調査の解釈を誤っているように思います。

いや、そんな話をしているのではない、という人もいるでしょう。リウネ州の女性が妊娠を控えるべきかどうかという話をしているのではなく、私の赤ちゃんに何が起きるかということを知りたいのだと。

「私の赤ちゃんに何が起きるか」ということが問題なのであれば、疫学はその問いに答えを与えてくれません。疫学調査でわかることは、ある環境では新生児の先天性疾患が0.05%だけ増えた、とかいうようなことです。「このようなリスクがあることを知った上で、妊娠したいかどうか決めてください」と言われたら、誰でも困惑するのではないでしょうか?疫学的なリスクを知ったからといって、妊娠するかどうかを決定するための手がかりを得られるとは限りません。くどいようですが、疫学というのは「私の赤ちゃんは先天性異常を持って生まれてきますか?それとも持たずに生まれてきますか?」という二者択一の問いに対する答えを導くための知識ではないからです。

それでもやはり、「私の赤ちゃんに何が起こるか」が心配だという人は少なくないと思います。そんな時は、障害を持って生まれてきた子どもの母親たちの経験に耳を傾けてみるのも良いと思います。同時に、放射線の問題がなくても、出産を希望する女性は日々、「疫学的な問題」に晒されて生きているということを思い起こしてみるのも良いと思います。

もう少し具体的にいえば、障害を持って生まれてきた子どもを持つ母親が経験するのは、次のようなことかも知れません [3]

《私の目の前にはタバコを吸っている母親がいて、彼女はよく太った健康そうな赤ちゃんを抱いている。私はと言えば、胎児への影響を考えてタバコには手を出さなかったし、お酒も飲まないようにしていたし、葉酸を毎日飲んでいた。私がいま、抱いている子は先天性の障害を持って生まれてきた。このことを私は、どう解釈すれば良いのだろうか?》

[3] Landsman, Gail Heidi. 2009. Reconstructing motherhood and disability in the age of perfect babies. New York: Routledge.

「健康な赤ちゃんを産みたければ、タバコをやめなさい」という言い方がよくされますが、これは実は、障害を持って生まれてきた子の母親たちの経験とは相容れない論理なのです。またこれは一見、疫学の成果を踏まえているようで、じつは疫学の重要な前提を、いくつも見落とした議論でもあります。

なぜなら、妊娠中に放射線がいつもより高くなくても、タバコを吸わなくても、酒を飲まなくても、葉酸を毎日飲んでも、赤ちゃんが障害を持って生まれてくることはある、というのが母親たちの経験であり、また疫学という知識の前提でもあるからです。疫学的な危険因子と障害との関係は複雑であり、タバコを吸っている母親から健康な赤ちゃんが生まれるのは、むしろ普通のことだということを付け加えても良いでしょう。

タバコが問題ではない、ということを言いたいのではありません。まして放射線が問題ではない、ということを言いたいわけでもありません。とりわけ福島中通りのように放射線の値が高い場所で住民が生活を続けるとき、どのように内部被ばくを防ぐのかは、真剣に考える必要のある問題ではないかと思います。

その上で重要なことは、「母親が気をつけていれば健康な子どもが生まれる」というところから考えはじめるのではなく、どのような環境下でも障害を持って生まれてくる子どもはいるのだ、というところから考えはじめることであると思います。自らとわが子の人生の将来を、放射線疫学が示すデータの中にだけ見いだそうとすることは、決して人生を豊かにしないと思うからです。

2011年4月28日木曜日

いまエイモス・チュツオーラの『やし酒飲み』を読む

ナイジェリアの作家、故エイモス・チュツオーラに尋ねれば、原子炉なるものは、彼が『やし酒飲み』で描いたあの卵、つまりやし酒飲みの男が死者から送られた卵のようなものだと言うでしょう。その卵というのは、世界中の人びとを飢えから救うほどの際限のない富を与えてくれるのですが、それと同時に、周囲にいる者に恐ろしい災厄をもたらす悪意も持ち合わせています。

文学者である故土屋哲の翻訳で晶文社から刊行された『やし酒飲み』には、訳者によるたいへん興味深い解説が付されています。それによれば、『やし酒飲み』の物語全体を覆っているモチーフは、恐怖とモラルの葛藤であると言います。
恐怖とは、敵意に満ちた自然への恐怖、思いもよらぬ場所から人間に襲いかかってくる邪悪な精霊への恐怖です。「アフリカ人は確かに、彼をとりまき、彼の生存そのものを脅かす自然とか、そのほかさまざまな問題が山積していることをよく知っている。しかし、これらの難題に、勇気と知謀をもってじゅうぶん対処できるだけの能力を、自分たちは具備しているという絶大な自信を、アフリカ人は持っている」と、土屋哲は書いています。

ここで「絶大な自信」と述べられている感情は、私たちが原子力の平和利用に夢を託した時の感情とは全く異なる性質のものだということを、言っておかねばなりません。小さなボディに原子炉を内蔵した『鉄腕アトム』の活躍を描くストーリーは概ね、悪意はあくまで邪悪な人間が持つものである、と教えてきたように思います。私たちは、原子炉そのものが私たちに向けるかも知れない、底知れない敵意に目を向けないようにしてきた。そして「難題に対処する」誰かは鉄腕アトムではなく、私たち自身であるということを、考えずに来てしまったのです。

いやそんなことはない、私たちは放射線の恐怖について繰り返し警告してきたのだ、という人もいるでしょう。やし酒飲みの男が持ち帰った卵に群がる人びとが、その同じ卵によって打ちのめされるように、私たちも放射線の恐怖に晒されているのだ、と言うかも知れません。いまこそ放射線の恐ろしさについて、もっと大きな声で警告すべきだと。

放射線の脅威は、もちろん現実のものであって、私たちはその難題に対処する必要があるのですが、しかしそれは、恐怖にとらわれてしまうことと同じではありません。土屋哲は、H・R・コリンズの次のようなことばを引用しています。「この恐怖とて、決して登場人物たちを卑屈にしたり残忍にしたりはしなかった。チュツオーラの主人公たちは常に、人間に対して、寛大で鷹揚で親切だし、悪鬼とか、敵意に満ちたゴーストに対しても、公明正大なのだ」。

『やし酒飲み』を読む者は、まるで夢でも見ているかのような、不思議な世界を旅することになります。「貪欲な、非情な生物だけが住んでいる」という「不帰の天の町」から生還したり、「あらゆる森の生物に君臨する」という「幻の人質」を味方につけたりしながら、旅を続けるのです。しかし同時にこの物語は、あくまでもリアルな恐怖とモラルについての物語でもある、ということを忘れてはいけません。

別の言い方をすれば、次のようなことです。原子炉は人類にとって夢であるか悪夢であるか、そんな問いには意味がありません。問題は、放射線の脅威に向き合う時に、私たちがどのようなモラルを持ち続けることができるのか、ということです。自然の敵意を忘れたふりをするのではなく、また自然の恐怖に屈服するのではない、別の生き方があるのだと言うことを、『やし酒飲み』は教えてくれます。またその生き方は、「現状維持」が崩れることへの不安と、放射線への不安とのあいだで身動きが取れなくなっている私たちの社会を、別の方向に変えるきっかけを与えてくれるかも知れないと思います。

2011年4月19日火曜日

原発とともに生きる社会の条件

福島第一原発の事故に対して、どれだけの犠牲が払われたか、払われることになるのか、まだ私たちは知りません。しかし、どのようなことにも犠牲が伴うと考えるならば、原発はそのようなことのひとつでしかないと言えるのかも知れません。

原発事故がどれほど危険なものであり得るか、ということを十分に知った今でさえ、なぜ原発が私たちの社会に存在してはならないのか、という問いへの答えを見いだそうとすれば、その答えは意外と見つけにくいのかも知れない、と思います。

原発は、そこで働く人たちに極めて危険な作業を押し付けるではないか、それが、原発が存在してはならない理由だ、という人もいるでしょう。今回のような過酷な事故のときにはもちろんだが、ふだんから放射線を浴びて作業せねばならない人たちがいる。

し かし私たちの社会には、誰かが危険な任務を引き受けてくれることを前提に成立している、という部分が確かにあります。戦争のような恐ろしい局面のことを 言っているのではなく、ごくふつうの生活を成り立たせるためにも、誰かに危険を肩代わりしてもらっていることは、ずいぶんあるような気がします。他の場合 は容認できて、原発での危険な作業だけは容認できないとしたら、それはなぜなのか。

原発事故は、現にこれほど多くの避難民を生みだしたではないか、それが、原発が存在してはならない理由だ、という人は少なくないでしょう。

確かに避難を強いられる苦しみや、いつ避難を強いられるかわからない恐れ、あるいは避難しないという判断がほんとうに正しいのかどうかわからない不安は、いずれも耐えがたいものです。しかし私たちの社会は、これまで も少なからぬ人たちに対して、生業を捨て故郷を去るように求めてきたように思います。そのような歴史の上に立って、なお原発による避難は容認できないとしたら、それはなぜなのか。

このようなことを考えたのは、つい最近実施された世論調査の結果、原発の現状維持を望む意見が51%を占めたという記事を、昨日の新聞で読んだからです。

そんな結果が出るのは、まだ原発の危険を他人事のように思っている人がいるからだ、と言う人がいるでしょう。しかし同じ調査では、89%が今回の事故に不安を感じていると言っており、88%が福島第一原発以外の原子力発電所でも、大きな事故が起きる不安を感じると言っている。不安だけれども現状維持を望む、という奇妙な感情は、同じ紙面で紹介された敦賀市民(主婦53歳)のことばに、端的にあらわれています。「危ないのを承知で原発をつくってきた。今更いらないとは言えない」(2011年4月18日付朝日新聞大阪本社版朝刊)。

敦賀市には4基の原発が立地しており、過去の事故で風評被害を受けた経験もあります(こちらの論文中に言及あり)。それでも17日に告示された敦賀市長選では、4人の立候補者全てが原発容認を表明しているということです。

「それは要するに金の問題だろう、原発がどれだけの金を地域に落としているか考えてみろ」という指摘は、決して的外れではないように思われるのですが、しかし「要するに敦賀市民は皆、金が欲しくて故郷を売ったのだ」という結論は、たいへんに的外れであると思うので、違うことを考えてみます。

「違うこと」というのは、次のようなことです。私たちの社会の中には、他の人たちの危険を引き受けることを自らの人生の条件だと考えて、ずいぶん長く生活してきた人たちが、少なからずいるように思います。例えば関西のために原発を引き受けてきた敦賀の人たちにとって、大阪であがる「原発はいらない」という声は、「敦賀はいらない」という声に聞こえないとは限りません。

そういえば別の文脈で、これと似た例があったように思います。さきの国交相が八ッ場ダムの建設中止を発表したときに、その決定は、建設反対の長い歴史を持つ地域住民の苦悩を根本から取り除くだろう、という期待があったと思うのですが、実際にはそうではなかった。苦悩の末に故郷を去る決断をした地域住民の中には、建設中止の決定に納得できないという人も、少なくないのです。それは他の人たちのためにと、故郷を去ることを選んだその人の人生が、突然、無意味だと言われたように感じられたためかも知れません。

以上のことを述べた上で、問題は次のようなことであるように思います。「結局のところ現状維持だけが、多くの人たちの人生の意味を否定しない方法なのだ」と結論することは、正しいのだろうか、それとも間違っているのだろうか。

これは答えのない問いだ、ということは、先に言っておかねばなりません。「なぜ原発が私たちの社会に存在してはならないのか」という問いと同じように、答えのない問いなのです。

ただし、答えのない問いであっても考える手がかりはあります。「なぜ原発とともに生きねばならないか」、という問いについて私たちが考える手がかりも、「なぜ原発とともに生きられないのか」、という問いについて私たちが考える手がかりも、福島や敦賀の人たちの経験の中にある、と考えてみることは、意味のあることだと思います。

たとえば「福島には原発が必要だった」という記事は、そのような経験について書かれたもののひとつだと思います。この記事は、「原発は必要だった。でも、もういらない」と結ばれています。そこには実に多くのコメントが寄せられていて、それに応答するかたちで書かれた「福島には原発が必要だった(補足)」という記事は、「過去を受け入れて、分析して、明日につなげたい」ということばで結ばれています。

※この記事にコメントがあるけどここには書きづらいという方がありましたら、ぼくはフェイスブックにいますので、そちらにメッセージくださっても良いです。

2011年4月10日日曜日

この自由な世界で

市場経済が支配するこの世界で、他人の善意に自らの切実な希望をゆだねねばならない時ほど、つらい時はないでしょう。

福島県内では現在、「がんばろう ふくしま!地産地消運動」が展開されているということです。福島県の農産品を全国で食べて貰うために、まずは福島県民が率先してそれを食べよう、ということらしく、県内のスーパーや農協の直売所に「地産地消コーナー」を設置し、放射線検査で安全が確認できた野菜を販売しています。1日には地元出身の俳優、西田敏行さんが郡山市のスーパーマーケットに駆けつけ、佐藤雄平知事らとともに「イチゴやキュウリをほお張って県産品の安全性を訴えた」と報道されています。

この訴えが有効であるかどうか、それは福島県農家の努力にかかっているというよりも、福島県外の消費者にゆだねられています。もし私たちが、「絶対に安全な」野菜しか食べないと心に誓っているならば、そして福島県産の野菜を食べることは避けたいと考えるならば、福島県民は単に手近で採れた「危険な」野菜をじぶんたちで食べているというだけのことになってしまう。それは言うまでもなく、「地産地消」ということばのほんらいの意味を、正面から裏切る状況です。

もちろん、善意の消費者が福島県産品を買い支えようとすることは、じゅうぶんに考えられるのだけれども、それだけで福島県産品が市場で暴落している状況を変えられるのだろうか、ということも気になります。一部の「幸運な」野菜が、少数の善意の消費者のもとに届くということは、決して無意味ではないにしても、決して十分ではありません。

市場経済が支配するこの世界で、自らの切実な希望を、他人の善意にゆだねることは非常につらいことであるし、またその善意にすがることができるのは、一握りの幸運な人だけかも知れないのです。これは私たちひとりひとりが、福島県産の農産品を選ばないという選択肢を持っている限り、変わることがない現実です。

したがって、私たちはほんとうに福島県産の農産品を選ばないという選択肢を持っているのか、ということが問われねばなりませんが、その前に少し回り道をして、関西を中心に放映されている「探偵!ナイトスクープ」という番組のことに触れておきたいと思います。「がんばろう ふくしま!地産地消運動」で先頭に立つ西田敏行は、この番組の司会者としても(少なくとも関西地方では)よく知られています。

「探偵!ナイトスクープ」は、視聴者から寄せられた悩みや疑問を、「探偵」を名乗る出演者達が解決してゆくという、比較的単純なスタイルの番組なのですが、そこには暗黙の、しかし明白なルールが貫かれています。それは、依頼者が求めていることがどれほど寄り添いにくいものに見えても、必ず出演者は全力でそこに寄り添う、という一貫した態度です。

こういう説明は解りにくいと思うので、「探偵!ナイトスクープ」視聴者のあいだでは良く知られているエピソードをひとつ挙げておきます。だいぶ以前のことですが、うちの娘を何とかルー大柴に会わせてやって欲しいという依頼が、この番組にありました。というのも、その娘さんが大のおじいちゃん子で、そのおじいちゃんが亡くなって以来、元気がない。じつはおじいちゃんはルー大柴にそっくりなので、会えば元気が出るのではないかという依頼です。

依頼を受けてその女の子のうちに出向いたルー大柴は、明らかに自らの役割に困惑していて、最初は「めそめそしないで、前を向いていこうよ」みたいなことで済ませようとします。しかし次第に彼が女の子の要求に応じて、おじいちゃんの役割を果たそうとするうちに、女の子はあれほど会いたかったおじいちゃんが、確かに目の前にいると思えるような、短いけれどもかけがえのない時間を得ることになります。

「探偵!ナイトスクープ」には、この他にも風変わりな依頼が次々に寄せられます。そして番組の出演者たちは、常にその依頼を切実なものとして受け止め、そこに寄り添うことをみずからに課している。そのことによってこの番組は、単に風変わりな人々を笑いものにするバラエティ番組以上のものとして成立しています。

私たちがこの番組から学ぶことができるのは、次のようなことです(なお念のために言っておきますが、これは教育番組ではなくバラエティ番組です)。私たちはこの自由な世界で、さまざまな生き方を選ぶことができるし、またさまざまな価値を信じることができる。そのような世界であるからこそ、私たちは他人が選んだ違う生き方、他人が信じる違う価値観に寄り添う必要がある。そしてそれは、単に私たちの善意からではなく、義務としておこなわれなければならない時がある。

さて、回り道が過ぎて論旨が見えにくくなってしまいましたが、ここでようやく本題に戻るなら、次のようなことが言えると思います。第一に、通常よりもいくぶん高い放射線の影響下で栽培された野菜を、多くの人に食べて欲しいという福島県農家の訴えについて。それを何か風変わりな依頼のように受け止めるのではなく、切実な要求として理解することが必要です。つまり「あそこではしばらく農業や漁業は止めた方がよい」という前提から出発するのではなく、「ここで以前と同じように野菜を作りたい」という希望に寄り添うことから考え始めることです。

そしてもうひとつ、もし私たちの社会が、世界でも有数の「市場」である以上の何かとして成立しているはずだと私たちが考えるならば、検査を経て安全性が確認された福島県産の農産物を買わないという選択肢を、私たちは持っていないのではないかと、真剣に考えてみることだと思います。「選択肢を持っていない」という言い方は少しわかりにくいんですけど、 要するに政府や公的機関が、福島県や茨城県を含む東北各県から優先的にものを調達したり、風評被害を受けている地域の産品が市場で流通することを、何らかのかたちで保証するような制度があっても良いのではないかと、そう思います。

2011年3月30日水曜日

放射線とともに生きる社会の条件

原発に賛成であろうが反対であろうが明らかなことは、当面私たちは、普段よりも高いレベルの放射線とともに生きていかねばならないということ、そしてそのレベルが普段よりもどれくらい高いかは、同じ日本でも場所によってずいぶん違うのだ、ということです。

いま再び盛り上がりを見せつつある反原発運動(全部ではないけれど、少なくともその一部)について心配するのは、それがわれわれを「安心な」社会へと導く目印であるというよりは、むしろ現状の困難さをつくりだしている条件になってしまっていないか、ということです。放射線の怖さを喧伝することは、絶対に安全な場所にいようと心に決めた市民と、野菜づくりに自らの人格を賭けてきた福島中通りの農家、それに第一原発の中で日当40万円で働いていると噂される日雇い労働者との間に、超えられない溝をつくりだしてしまってはいないかという心配です。

放射線の健康への影響は、政治家や専門家が言うところの「身体に直ちに影響のあるレベル」とかではない限り、「疫学的なもの」です。これはつまり、人が外部被ばくあるいは内部被ばくする放射線の量が高まると、ある特定の疾患が発生するリスクが高まるということなんですが、その危険は、基本的には1万人とか10万人とかいう集団を追跡調査したときに、何年もあとになって、ようやく確認される(放射線を浴びなかった集団よりも、特定の疾患にかかる人の割合が多かったことがわかる)こともあるし、確認されない(疾患の増加が見られない)場合もある、ということを意味します。

そういう次第なので、放射線疫学の専門家の解説(たとえば「放射線による内部被ばくについて」)を読んでも、東京の水道水を飲んで自分が何かの病気になるのかならないのか、さっぱりわからないという人は多いと思いますけど、それも無理はありません。疫学というのは本来、「私は病気になりますか、それともなりませんか」という質問に答えるための知識ではないからです。

リスクの高まりは確かにあるのだが、それがひとりひとりの健康にどう作用するか、それは知りませんというのは、それは確かに不安をかき立てます。このような「疫学的な危険」へのひとつの解釈は、自らの身を守るために福島の野菜は食べないし、東京の水は飲まない、ということでしょう。たばこを吸うとガンになるよ、というような教育を普段から受けていれば、これが唯一の解釈であるかのように思えてしまいます。

しかし、疫学的な知識をもう少し詳しく見てゆけば、違う解釈も可能であることに気づくはずです。ひとことでいえば疫学的な知識は、人間が放射線と共存する条件のひとつ(ひとつです。全部ではありません)を教えてくれます。例えば過去のチェルノブイリ原発事故のような過酷な条件で、放射線が人に与える影響を追った大規模な疫学調査は、高いレベルの内部被ばくにもかかわらず、成人の白血病が増えたわけではないことを示しています。また小児の甲状腺ガンは大きく増えたが、子どもが飲む牛乳をきちんと検査していれば予防が可能であったと考えられています(そのことを簡潔に説明した内容が含まれた文書)。

知識と技術、つまり疫学的な知識と、内部被ばくを防ぐための放射性物質の検査技術は、私たちが放射線とともに生きるために必要な条件のうちの、ふたつです。ただし、技術的に安全が確かめられればそれで良いと言うことではありません。もうひとつ重要な条件であるとぼくが考えるのは、ある種類の倫理、あるいは「他者の人格に対する関心」です。

私たちに疫学的な知識があり、放射性物質をきちんと検査する技術がある(そして実際に検査する制度が機能している)ということを知っていて、さらにその上で、私たちが食べる野菜は、それを作っている農民の人格と結びついているのだということに対する関心があれば、検査を経た福島県産の野菜を積極的に買おう、という結論が導かれるはずです。

「はあ、導かれると言われても」という印象を持つ人もいるかも知れないので、福島県産のニラに対して、上に述べたようなことが実践された(かも知れない)事例を紹介しておきます。風評被害のため市場で暴落していた福島県産のニラを、横浜のある八百屋さんが仕入れて、「検査済みのため中央卸売市場に入荷して仕入れたものは安心」と説明して売ったら、ずいぶん売れたのだそうです。

八百屋の新倉高造商店ブログ:風評被害の事をつぶやいたツイッターの反応がすごい!

この話は、風評被害で福島県産のニラが価格暴落した、ということが前提になっているので、決して災害ユートピア的な美談ではありません。それを踏まえた上で重要なことは、私たちの行動と、疫学的な知識とが「あなたの健康が危ない」という論理によって結びつけられることではなく、自分とは違う疫学的な危険にさらされている他者の人格に配慮するような倫理によって、結びつけられることなのです。

他方で、いまこの時も福島第一原発で「直ちに健康に影響がある」レベルに近い放射線を浴びて作業しているかも知れない人たちへの関心が導きだす結論もあります。それは第一には、少なくともその人たちのこの先の人生に対して、私たちは責任がある、ということであり、第二にはこの先、こういう作業を誰か別の人に頼まなくても生活できるように、原発と共存する社会の条件について真剣に考え直そう、ということです。少なくともいまの技術的・制度的条件では、原発と共存する社会が民主的なものである可能性はないように思われます。ただしそのことを言うのに、「あなたの健康が危ない」と、むやみに煽る必要はないのです。

注記をふたつほど。

ぼくは普段、「hivと共存する社会の条件とはどのようなものか」ということを考えることを仕事にしているのですが、もしウイルスと共存できる疫学的、倫理的、政治的な条件があるとしたら(もちろんあるんですけど)、放射線とともに生きる社会の条件とはどのようなものだろうかと考えたのが、上記の記事を書いた動機のひとつです。

もうひとつの動機は、『関西からアフリカのエイズ問題を考える』という催しを何回か一緒にやらせてもらった斉藤龍一郎さんが、とあるMLに投稿されたメールの中に、反原発運動と障害者運動とは共存できるのだろうか、という趣旨の問いかけが含まれていたことです。上記の記事から汲んで頂けると思いますが、ぼくは反原発運動(全部ではないけれど、少なくともその一部)が、障害者運動とは本質的に相容れない主張を含んでおり、そのような主張をしなくても、原発のない社会は想像できるはずだと考えています。

2011年3月28日月曜日

震災によせて

1995年1月17日、ぼくは名古屋にいて、布団の中で揺れを感じ、 夢見心地の中で、なぜか東京にいる弟のことを案じていました。揺れたのは東京の方ではなく両親が暮らす兵庫県であることを知ったのは、少しあとのことでした。テレビをつけると何か大きなコンクリートの壁のようなものが写されていましたが、それが倒壊した阪神高速道路だということに気づくまでには、少し時間を要しました。しばらくして公衆電話からかけた電話で、母と連絡がとれて無事を確認しましたが(やや山間部にある実家には、被害というほどの被害はありませんでした)、同じ県内でどれほど多くの人が亡くなったのか、その時は知りませんでした。

それから数日は、増え続ける死者数を伝えるニュースを眺めて過ごし、週末、薬と水を自転車に積んで神戸の友人を見舞いにゆき、自転車がパンクしたので帰りは阪急電車の西宮北口駅まで歩きました。同じように駅を目指して歩いている人が大勢いて、その中にはぼくのように帰る家がある者もいましたが、家を失ってどこかへ行かねばならない人たちもいました。

あれからずいぶん時間がたって、震災とはどういうものなのか、ぼくなりに理解したつもりになっていたように思います。最初の揺れから3日もすれば、被災地には食糧が届き始めるだろう。それに続いて大勢のボランティアが現地に入り、人々を助けるだろう。寒さは、生き残った人たちには辛いだろうけれども、遺体があまりに早く損なわれないように、時間を与えてくれるだろう。少し間をおいて、生活を再建するための取り組みが始まるだろう、というようなことを、3月11日のあとに考えていました。

もちろん今は、この未曽有の状況をどう理解したら良いか、などという悠長な議論をしているときではありません。「いま、私たちにできること…」というCMの声に促されて、誰もが今の状況に対して、それぞれの時間や、お金や、労力を貢献することを求められている。このことに疑いはありません。

しかし、次のようにも思います。私たちがいま何をするかは、電力不足との戦いや、さらに厄介な原子炉との戦いだけに関係しているのではない。また東北の復興を終えるまでの一時的な努力というのでもない。私たちがいま考えたり、話したり、何かすることは、これから私たちが生きてゆく世の中が、どんなものになるのかということに、ずいぶん関係している。

思えば1995年の震災の時も、そこにいた誰もが喪失感を味わい、人生が変わったと感じ、1月17日よりあとの私たちの社会は、それまでとは異なっしまった、あるいは異なるべきだと感じたよう思います――とそんな風に言えたら良かったのですが、実際には激しい揺れにも変わらない意志を貫いた人もいて、たとえば当時の神戸市長は、多くの避難生活者が目に入らないかのように、「今こそ空港をつくる時だ」という趣旨の発言をしたのを覚えています。

いま私たちが見ているのが、高速道路をそのまま復旧した上に、空港もある神戸だということに文句を言っても何も始まらないかも知れない。そうだとしても、これから私たちが見るのが、津波のような災害にどう向きあう社会なのか。また放射線と共存する社会の条件とは何なのか。それは津波で家族を奪われた人たちの切実な問題であると同時に、決して彼らだけに切実な問題ではないし、また福島にいる人たち(第一原発の中にいる作業員、浜通りから避難した住民、それを受け入れている中通りの住民)が直面している苦しみであると同時に、決して彼らだけの苦しみではないと思いたい。

これほど深く、広範な喪失のあとに日常生活を続けるということについて、私たちは決して罪悪感を感じる必要はない。しかし、だからといっ前を向いとか、元気を出してとか、そういったことばで乗り切っしまえるものでもないように思います。あの場所やこの場所で、人々が生きる値する生をどう生き、どう死を迎えるのかということへの関心が、これからの私たちの社会でどのような位置を与えられるのか、そういったことが問われいるよう思います。